EVENT  「私たちの部落問題vol.2」 第2部土肥いつきさんレクチャー


 第2部前半では、長年人権教育にたずさわってきた土肥いつきさんに「語ること/隠すこと/さらすこと」をテーマに、カミングアウトとアウティングについてのレクチャーをしていただきました。

 生徒たちのカミングアウトに向き合ってきた日々を通して今思うこと、そして「カミングアウト」と「アウティング」の境界線とは…。

 レクチャーの内容を再構成したものを、7回に分けて掲載していきます。

 

第5回目は「カミングアウトをめぐるさまざまな議論」です。

             

第1回目の「去っていった生徒」はこちらから

第2回目の「本名宣言は1つの到達点であると同時にそこからが本当のはじまりなのです」はこちらから

第3回目の「みんなに言ってよかったって心から思う」はこちらから

第4回目の「語ること、隠すこと、さらすこと」はこちらからご覧いただけます。


●カミングアウトをめぐるさまざまな議論

 

 まずは、ケン・プラマーですか。この方はライフストーリーの研究者で、『セクシュアル・ストーリーの時代』という本を書かれて、そこでカミングアウトに関して論考をされています。いろいろ書いておられます。

 

【私たちがセクシュアル・ストーリーの世界に生きているということは、べつに驚くにあたらない。あらゆる社会で、あらゆる形式で、ストーリーが語られるという止むことのない性質は、ますます認められるようになってきている。わたしたちは、ホモ・ナランズ(homo narrans)、つまりナレーターおよびストーリーを語る人間(humankind the narrators and story tellers)である、といってよい。社会そのものによって風合いが異なるにせよ、ストーリーの継ぎ目のない織物がいたるところで、人びとを集合集散させ社会をなりたたせる相互作用を通して現れる。(ケン・プラマー著・桜井厚他訳, 1998『セクシュアル・ストーリーの時代』新曜社, p.8)】

 

あるいは

【私の論点は簡単なものだ。提案しようとしているのは、――レイプ・ストーリーについてもそうであるのと同様に――ナラティヴが盛んになるには、聞いてもらうコミュニティがなければならず、聞いてもらうコミュニティにとっては、その歴史やアイデンティティ――が他方――のストーリーを互いに栄養源にするとともに、されるのである。コミュニティ、政治、アイデンティティ、ストーリーの動態あるいは弁証法が、いま進行している。(前掲書,p.181)】

 

 ま、結論は、難しすぎてよーわからん。ただ、いろいろと考えてはりますよという話ですね。

 

 あるいはカミングアウトと言いますと、フーコー大先生ですね。

 

【18世紀以来、性は絶えず全般的な言説的異常興奮とでも呼ぶべきものを惹き起こしてきた。しかも性についてのこれらの言説が増大したのは、権力の外で、あるいは権力に逆らってではなかった。それはまさに権力が行使されている場所で、その行使の手段として、なのであった。至るところで、語ることへの煽動がしつらえられた、至るところで、聴きとり、記録するための装置が、至るところで、観察し、問いかけ、文章化するための手続きが作られた。人々は性を狩り出し、否応なしに言説として存在することに追い詰めるのだ。各人に己が性的欲望を恒常的な言説にせよと共生する奇妙な要請から、経済、教育、医学、裁判の次元で、性の言説を煽り立て、抽出し、調整し、制度化する多様なメカニズムに至るまで、それは、我々の文明が要求しかつ組織化した途方もなく冗長な言葉の山だ。おそらく、他のどのような社会も、性についてのかくも多くの言説を、しかも比較的短い歴史の中で、集積したことはなかったと思う。どうやら性について、我々はどのようなことよりも多くを語っているようだ(ミシェル・フーコー著・渡辺守章訳, 1986『知への意志』新潮社, p.43)】

うーん、よくわかりませんよね。

 

まあそのフーコー大先生の話を通してですね、やっぱり避けて通れないのが風間孝さんですね。この方は「カミングアウトのポリティクス」というそのものズバリのタイトルの論文を書いておられまして、

 

【異性愛規範を内包することによって公/私のいずれからも同性愛が排除される中で、同性愛者のとりうる戦略のひとつは、公/私の区分けの自明性を疑問に付すことである。同性愛者であることを公言するカミングアウトは、同性愛を私的領域にとどめておくべき秘密とみなす認識枠組みに抗うことであるとともに、公/私の区分けのもとでの同性愛者の位置と、その区分けが有している論理を顕在化させることになる。

 公/私の区分けは、異性愛規範にもとづいていながら無性であると装うことをつうじて同性愛を私的領域に押し込めると同時にそこから排除することによって、異性愛者(の男性)にとって有利に働くように恣意的に構築されたものであることが暴かれるのである。

 カミングアウトとは、抑圧からの解放という権力の消滅した状態や権力関係の外を想定するのではなく、権力関係の中で構築されたアイデンティティを用いながら、公/私の区分けが同性愛をそのいずれからも排除することに対して疑問を付していく抵抗の行為であることを明らかにしてきた。

公/私の再定義を求めるカミングアウトの実践は、同性愛を排除するために公/私の区分けを実体化してきた力学を暴く行為であり、このような実践の積み重ねにより同性愛者の置かれた現実を変化させていく行為なのである。(風間孝, 2002, 「カミングアウトのポリティクス」, 『社会学評論』53(3), p.361)】

 

 あ~~~!というわけでですね難しいわけなんですよ。まぁ、実はそう簡単じゃないよっていう話なんです。

 

 解放の社会をつくるとか、抑圧への抵抗だとかそういう話もあるんですけれども、結局語ることを通して、実は権力みたいなものを、その語るということが特権的なうちにあるということが、カミングアウトする人間というのは被差別な状況なわけで、語る行為というのはそういう危険性を孕んでるよという話だと思うんですけれども…わかんない、はい。

もうちょっと簡単なのがあります。

「土肥いつき, 2015, 『トランスジェンダー生徒の学校経験』」

 私、トランスジェンダーの子どもたちが研究テーマでございまして、子ども達はなぜカミングアウトするのかっていう話ですね。

【このように、トランスジェンダー生徒は「言語化(つまり自分とは何者かを言葉化することですね)」と「ロールモデルとの出会い(つまりカミングアウトして性別の取扱いの変更を勝ちとった先輩との出会いですね)」を通して、ジェンダー葛藤の解決の道筋を見つける。それが「カミングアウト」である。

トランスジェンダー生徒にとってのカミングアウトは、学校に対して自分が学校の性別分化の中で強いジェンダー葛藤の状態に置かれていることを示し、その解決のために性別扱いの変更を要求する行為である。(土肥いつき, 2015, 「トランスジェンダー生徒の学校経験」, 『教育社会学研究』第97集, p.59)】

 

 カッコイイこと書いてるんですけれども、「なんでカミングアウトするねん」っていう話ですよね。よくカミングアウトっていうものを「告白」と、なんか同一視している人いるんですけれども、違うやろって思うんですよ。なぜカミングアウトするのかと問われたら、おそらくおそらくこれですよね。

「必要があるから」

なんですよ。何かがあるからカミングアウトするんですよ。何もないところにカミングアウトはないんですよ。それは「他者に変わってほしい」だったり、あるいは「自分の変革」だったり、さまざまな変革があるんですよね。

 

第6回目の「バレバレ」の「24時間ひとりパレード」に続きます)