EVENT  「私たちの部落問題vol.2」 第2部土肥いつきさんレクチャー


第2部前半では、長年人権教育にたずさわってきた土肥いつきさんに「語ること/隠すこと/さらすこと」をテーマに、カミングアウトとアウティングについてのレクチャーをしていただきました。

 生徒たちのカミングアウトに向き合ってきた日々を通して今思うこと、そして「カミングアウト」と「アウティング」の境界線とは…。

レクチャーの内容を再構成したものを、7回に分けて掲載していきます。

 

第1回目は「去っていった生徒」です。


 

こんにちは。京都からまいりました、土肥いつきと申します。

京都の公立高校の教員で、人権教育を長くやっています。現在趣味が高じて大阪府立大学の博士後期課程に在籍しています。

 

「『もとはねバリバリの男の先生ですね。特にね、うちの学校の校区には被差別部落とか、在日の子とか結構いるのでね。在日韓国人の子らね。なので気が付くとですね、そういう子らと一生懸命かかわるってかんじでしたかね。』

このように平気でアウティングしておきながら、ABDARCの講演会ではアウティングの問題をレクチャーするそうである」

というふうに同和wiki(※)には紹介されました。

(※全国部落調査や部落解放同盟関係人物一覧を掲載しているサイト。このイベントの登壇者発表後、全員の個人ページがつくられた)

 

●去っていった生徒

 

 京都解放研というのがありまして、そこがさまざまな教育実践を載せた機関紙「季節よめぐれ」というのを出していて、そこに書いていたレポートを紹介します。ここからいろんな生徒の名前が出てきますが、すべて仮名です。

 最初のレポートは1990年「逢いたくなった時、君はここにいない」というタイトルです。これはどういうレポートかといいますと、教員になって5年目に出会った幸子という在日の子との話です。

(土肥いつきさん 撮影:片岡遼平)

 

 それまでずっと在日の子とかかわらんといかんと思いながらもかかわり方を知らずにいたんですが、たまたま授業を担当したクラスに幸子という在日の子がいました。この子としゃべりたいと思いつつもなかなかしゃべれない日々が続いたんですが、あるきっかけがあって話ができるようになっていって、

折にふれていろんな話をしたり、家庭訪問に行ってアボジと話をしたり、その時「焼肉・キムチ・〇〇」という差別落書きがあって、とりくみをしたんですが、そのターゲットになった他の在日の子と出会わせたりみたいなことをしてきました。


 その中でずっと「本名を名のらへんか」という話をしてたんですね。幸子は一度そういうしつこい私から逃げたんですが、3年生になってもう一度つきあいができて、最終的には学校では名のらないけど就職を機に本名を名のると、そういうことがあったんです。

 

 でも、この子には最終的にとても嫌われちゃうんですね。

 

 幸子は人と対面する仕事を希望していたんですが、就職の面接の時に面接官が

「この仕事をするのに在日なのは全然いいんだけど、にんにく臭かった」というようなことを言って大問題になったんですよ。

 その時私は幸子に「自分はちゃんと申し入れをしに行く」という話をしたんだけど、そこから幸子との関係がこじれていくんです。

幸子は

「自分でなんとかするから申し入れはいらない」

と言いました。それに対して私は

「今後のためにも申し入れをする」「日本人のためにもやらせてくれ」

と言ったんです。でも幸子は

「日本人のことなんか知らん。ほっといてくれ」「なんで日本人のためにせんとあかんねん」と言いました。それでも最終的には幸子は自分の思いを綴った作文を書いてくれて、その作文をその企業に渡して、「この子はこんな思いなんだ」「ニンニク発言を撤回せよ」というとりくみをしたんです。

 それはそれでよかったんですけど、他には誰にも見せないと約束していたその手紙を私が無断で職員会議で読んじゃったんですね。それで後日幸子が私のところにふらっと来て

「あの作文返して」「先生が悪いんやで」

と言って私の元を去っていったという、そういうレポートです。

 

 で、まあそんなレポートを書いてですね、最後に「総括」というのをつけています。

 

【総括1 歴史、文化、言葉といったものをとばして、種々の問題からいきなり本名へといったこと。いかに、民族意識の強い家庭に育ったからといって、自分の中に根づくものが朝鮮民族のものであることはすぐにはわからない。それは、日本民族との比較、あるいは、他の同胞との交わりの中で、はじめて意識化されていく。そのことによって生徒は、自ら起きていく。本名は出発点であると同時に、やはり、一つの到達点であるといえる。逆にそうしたものを抜きにして、本名をあつかう時、本名をおしつけていくことになる」

とかね。

 

【総括2 1対1で常にやってきたこと。途中で1人の生徒との交わりがあったにせよ、基本的に1対1でやってきたことにかわりはない。1対1ではお互いに逃げ場がなく、また励ましあうこともできない。「仲間づくり」の必要さを感じられる】

とかね。

 

【総括3 「日本人のために」を強調したこと。何を言ってきたと批判を受けそうだが、これは、1で述べたことと関連してくる。内的な高まりのない本名宣言は運動化していく。幸子との場合は、私の側に内的な高まりがないために、「日本人のために」という発想が出てきたように思う。そして彼女の「私を利用せんといて」はもう一つの側面(あとで述べる)をもちながら同時に「朝鮮人である私にとっての本名をあなたは考えてくれてるのか!」という告発である】

なんて書いてます。

 

そして、さらに総括は続くんですよ。ほんと辛気くさいですよね~。

 

【3の部分は、私自身のあり方をさらに深く問うていく。ウリ文化研究所(だったと思う)の集まりで、私は幸子のことを友人(日本人)に「やっとひとり本名を名のらせることができた」と言った。友人は「なに?名のらせた?」と問い返しかかり、やめた。当時、そのことに「気づき」ながらも「わから」なかったが、いまあらためてよみがえってくる。「本名を呼び名のる」教育実践を私は、まったく理解していなかった。

「生徒を起こしていく」教育実践を、私はまったく理解していなかった。生徒を起こしえず、しかし、「本名を名のる」という形にとらわれすぎ、やがて「本名の生徒をつくる」運動へと私は走っていったのだ。

私は、本名で生きていこうとする「幸子」のことを喜んだのではなく、本名を名のる「生徒」をつくれたこと、すなわち運動の成果を喜んだのだ。彼女は、私の功名心を満足させたのだ。そして、先ほど述べた「私を利用せんといて」のもう一つの側面は、ここにかかってくる。彼女は「私をあなたのために、利用せんといて」と叫んだのだ。このような私から彼女が離れていったのは、あまりにも当然のことといえる】

 

こんなこと書いてたんですよね。

 

 この「季節よめぐれ」というのは、編集長が前書きにいろんなコメントを書きはるんですよね。その号ではこんなこと書いてはりました。

 

【土肥謙一郎さん(私、謙一郎って言う名前だったんです)から、「逢いたくなった時、君はここにいない」というクサイ題の実践レポートを寄せていただきました。本名宣言を教員の手柄と考えたり、目的としてしまう傾向に対する反面教師として読んでいく必要があると思います】

という、とてもありがたいコメントをいただきました。なんでこんなことになったのかなって思うんですけど、当時の私は名だたる先輩と肩を並べたいという功名心みたいなものがあったんですよね。

 

第2回目 「本名宣言は1つの到達点であると同時にそこからが本当のはじまりなのです」に続きます)